論文の名前を「姓・名」の順で書いた話: たゆたえども沈まず-有機化学あれこれ-
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2019年06月08日

論文の名前を「姓・名」の順で書いた話

この間こんなニュースが出てました。


柴山文科相「氏名の英語表記は名字を先に」 (NHK, 2019/05/21)


"Taro Yamada"じゃなくて"Yamada Taro"にしようって話。確かに中国や韓国などアジア圏は結構「姓・名」の順なのに日本はアレだなーって昔から思っていたのでいいことだと思います。

さて、今回はそんな「姓・名」の順が問題になってしまった話を。


α位にキラル中心を持つカルボニル化合物への付加反応は有機合成化学的に頻出するため、その付加反応の生成物の立体選択性を説明し、それをもとに合成法を改良する、もしくはあらかじめ予測できるようなモデルを考案することは非常に重要です。

そこで、基質自体の安定配座を基本としたいわゆるCram則の提案がDonald Cramらによってなされて以降、このCram則に対する改良や解釈、計算化学的なアプローチが様々行われ、ConforthモデルやらKarabatsosモデルやら様々なものが出されました。その中でも最も有名なFelkin-Anhモデルは、Felkinらによってまず提案され、その後Anhらによって改良されたモデルです。なおこれらをカルボニルだけでなくさらにオレフィンの付加反応などへ拡張したHoukモデルもあるのですが、こうした話をしだすと大変なことになるので省略。↓の総説読んでね。

Felkin-Anh01.jpg

Around and beyond Cram's Rule (総説)
A. Mengel, O. Reiser
Chem. Rev.1999, 99, 1191.


Felkin-Anhモデルは、カルボニル基に隣接する官能基との軌道相互作用(最も大きい置換基Lとの反結合性軌道σ*とカルボニル基のπ/π*軌道が相互作用する向き)と、求核剤の接近が有利になる置換基配置[103°前後のBürgi–Dunitz角に準じた方向からの接近;つまり一番小さい「S」が有利(なのでカルボニル側は「M」が向く)]を考慮した状態モデルで、ヘテロ原子の置換基があっても説明がつけやすいため適用性が非常に高いことからこのモデルが非常に広く知られています。

気を付けないといけない点として、このL, M, SはCahn-Ingold-Prelog順位則 [RとかSとかのキラル中心を決めるときに使うアレ;不安な人は「有機化学1000本ノック立体化学編(化学同人)」をじゃんじゃん説こう!(誰かの宣伝)] に準じた優先順位という意味での大きさです。なので置換基Lは大体の場合がOやNなどのヘテロ原子などを持つ極性置換基になります (極性置換基がない場合実質この決め方でも嵩高い官能基がLになる)。

Felkin-Anh02.jpg


なおFelkin-Anhモデルはキレーションがない場合の話なので、配位可能なキレーションが求電子剤内にある場合((α- or β-)chelation modelもしくはCram-chelate model)や、6員環遷移状態を経る場合(Zimmerman-Traxler model)など、都度反応条件や反応機構、基質に応じて説明に適切なモデルを知っておく必要があります。


Felkin-Anh04.jpg

Felkin-Anh03.jpg



はい、まじめな話はおしまい!(ぉ
で、今回問題にするのはそのFelkin-Anhモデルの「名前」の話。
人名反応もそうですけどこういう名称として定着した場合、その人のフルネームまで見ることはそうそうなくなってしまいます。Woodwardの場合はRobert B. Woodward、CoreyはElias J. Coreyで比較的有名ですが、Swernが"Daniel Swern"だって知ってる人はそうそういないはずです。


その"Felkin-Anh"ですが、Felkinの方は"Hugh Felkin"なのでHughが名前、Felkinが姓名なのは明白です。

Torsional strain involving partial bonds. The stereochemistry of the lithium aluminium hydride reduction of some simple open-chain ketones
Hugh Felkin, et al.
Tetrahedron Lett. 1968m 9, 2199.


では"Anh"の方はどうでしょう。
そもそも"Anh"って見ない苗字ですよね、"Ahn"じゃないですよ"Anh"ですよ。
その"Anh"先生のフルネームはこちら↓



Nguyên Trong Anh


そう、ベトナム系の人なのです。出自までは分かりませんでしたが、国籍としてはフランスで、エコール・ポリテクニークで教授を務められておりました。しかし顔写真を見てもやっぱりベトナム系。まあ中身はさておきここで問題なのは名前。
ベトナムは韓国や中国同様、英語であっても「姓・名」の順で記載します。某国の偉大なる最高指導者様もKim Jong-unです。
すなわち、このAnh先生の名前は

Nguyên Trong Anh
 姓       名


なのです(Tronはミドルネームに相当、姓か名かと言われたら名の側)。つまり、「Anh先生」ではなく「Nguyên先生」だったのです。

なんでこんなことになったのか。
通常論文は国の文化等々にかかわらず、欧米式に「名・姓」で著者名が書かれます。中国人であっても「Jin-Quan Yu」であって「Yu Jin-Quan 」とは書きません(漢字だと「余 金權」らしい)。ところが、この「Nguyên先生」の場合、理由は分かりませんがどの論文を見ても表記が「Nguyên Trong Anh」とみんなの慣習をぶっちして「姓・名」の順で書いてしまっています。このため、通常の流れから行けば後に表記されるのが姓名ですし、欧米人にベトナム名がそんな一般的じゃないから違和感がなかったんでしょうか、結果「Anh」が姓名として認知されてしまい、「Felkin-"Anh"」則として定着してしまったものと思われます。

Orbital factors and asymmetric induction
Nguyen Trong Anh, et al.
J. Am. Chem. Soc.1973, 95, 6146



一方、『やっぱり"Anh"が姓なのでは』説も考えられますが、そもそもベトナムでのNguyên姓は韓国でのKim並みに一般的ですし、「Nguyên先生」が勤められていたエコール・ポリテクニークのサイトの書作のページでは、その名前の表記が「Trong Anh Nguyên」となっており、すなわち「Trong Anh」が名、「Nguyên」が姓であることを示しています。ちなみにベトナムの現主席はNguyễn Phú TrọngなのでやっぱりNguyễnは苗字。

Auteur : Trong Anh Nguyên (エコール・ポリテクニーク)



というわけで、「Felkin-Anh」モデルは正しくは「Felkin-Nguyên」モデルだったわけです。
さあこれからはみんなで「Felkin-Nguyên」モデルと呼ぼう!!



って言ったところでそもそも半世紀も前に出されて定着した呼称なんぞ、そんな簡単にひっくり返せないですし実際無理でしょう。なので、「(本当はFelkin-Nguyênなんだけどしょうがないから)Felkin-Anh(って呼んでる)」モデルとして頭で思っておく程度にとどめておくくらいにしましょう。



ところで、





aizen_Anh.jpg


なんでいままで「Nguyên Trong Anh」の読み方を書かないできたか、その理由がここにあります。
ベトナム語の発音はいわゆる素直な英語的な読み方とはだいぶ違うのです。
その読み方はこちら↓



Nguyên Trong Anh
グェン チョン アイン





そう、つまりFelkin-Anhモデルは「Felkin-"Anh"」ではないし、そもそも「フェルキン-"アーン"」ですらなかったという衝撃の事実。というわけで「Felkin-Nguyên (フェルキン-グエン)」モデルと呼ぶのはあきらめるにしても、「Felkin-Anh (フェルキン-アイン)」モデルという呼び方に直す風にはしてもよいかもしれません。幸いなことに、今まで呼んでいた「アーン」を「アィン」っぽく言うだけで修正できるので簡単に済みますし、知らない人にもアーンって言ってる風に聞こえるのでバレません(アイーンっていうと志村けんっぽくなる)。


いやー人の名前って難しいですねー。日本人の名前も特に欧米からしたら発音しづらいから変に読まれてるかもしれませんね(向山は"ムキヤマ"って言われてた、うちの元ボスだけかもしれないけど)。ほかにも間違った読み方どころかどう読んだらいいのかわからん人はいっぱいいるのでぜひ発音記号とセットにしてもらいたいもんです。よくこの例だとMatyjaszewski (マチャゼウスキ)が出されるけどなんとなく読めるし、個人的にはCadiot-Chodkiewicz couplingのChodkiewiczをホドシェビチと読むほうが納得いかない( ・᷄ὢ・᷅ )
あと天然物合成の若手、Thomas J. "Maimone" (UC Berkeley)は「マイモニ」って読むらしいよ、「マイモン」だと思ってたわ(´・ω・`)

おまけ
名前の読み方が分からない最近の人のひとり、David Nicewicz (University of North Carolina)ですが、公式ツイッタアカウントで正しい読み方が公開されていたりします↓。ニセヴィッチ!






posted by 樹 at 12:40| Comment(6) | 有機化学雑記 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ずっとナイスウィッツって読んでましたが、偽ビッチ先生と呼ぶことにします
Posted by at 2019年06月09日 13:56
Buchwaldは未だにブッフヴァルトと呼んでしまいそうになりますね
Posted by at 2019年06月29日 22:33
WittigとかAngewandte Chemieとか、英語読みと現地語読みが混ざってておかしいのに、慣習で固まっているから崩せないものが色々とあってモヤモヤ。

Stilleは「スティレ」(うちの研究室)だったり「スティル」だったり「スティリ」だったり「スティーリー」(某研究室)だったり。
Szabóはご本人が「サボー」だと言っているのでわかりましたが、はじめ「スザボ」と呼んでました。
Posted by あず at 2019年07月05日 11:53
>ななし1さん
偽ではないホントビッチ氏を探すため、取材班はアマゾンの奥地へと飛んだ(ぉ

>ななし2さん
バックワルド派とブッフヴァルト派の溝は深い・・・
(ブッフヴァルト派だけどアメリカ人だからバックワルドだよなあしゃあない派)

>あずさん
「ヴィティッヒ」警察の私が通りますよっと。
Stilleをスティルって読んじゃうとフラッシュカラムクロマトの開発者Stillと間違うから困りどころ。アメリカだと「スティリ coupling」って周りは言ってたなあ。Bodeもボーディだったし、Maimoneといい最後のeはィって発音するほうがいいのかも(現地語的にそれで合ってるのかどうかについては話は別)。

>Szabóはご本人が「サボー」だと言っているのでわかりましたが、はじめ「スザボ」と呼んでました。

あれサボーって読むんですか、知らんかった・・・なんとなく勝手に「チャボ」って読んでました(ニワトリ感
もうややこしくなるから著者欄の名前の横に発音記号つけといてほしい・・・(;´Д`)
Posted by かんりにん at 2019年07月13日 07:55
チャボw 確かにそういう感じにも読めそうですね。
発音記号の併記については同感です。調べたり直接発音を聞けたりすればいいですが、そうではないことが多いですからね。または、CVに発音の説明を書くのをスタンダードにするとか(Szabó先生がそのパターン)。
Posted by あず at 2019年07月17日 22:14
ベトナムの人はオフィシャルな場であっても下の名で呼ぶのが一般的らしいので、Anhでも間違いではないんでしょうね

あーでも体操の技に「シライ・グエン」ってあるな
Posted by フォレストの森 at 2019年07月28日 13:42
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