ぼちぼち再開したいと思いますがその前に軽い話(軽いのか?)。年末恒例の愚痴ポストをしてなかったので年度末に。いや表題の通り、「博士号を出す、取るのに投稿論文が必須っておかしくね?」って話です。
なお、博士課程学生が責任著者として論文を出していることに関しての話は以前してるのでこちらもどうぞ。今回はそもそも論文いるの?って話です。
博士課程学生が論文の責任著者(Corresponding Author*)になってる話
だって博士号って「研究者(当たり前ですが『研究者=アカデミア』じゃないですよ)としてやっていける人間の育成とそれの証明としての資格」であって、別に「研究で成功した人」のための資格じゃないでしょ。別に論文関係ないじゃないですか。
自立していきなり自分でテーマ設定するような分野なら成功しなかったならしなかったでそこまでのプロセスやら企画力反省点などを評価すべきだし、合成化学やバイオ系みたいに学生じゃなくてトップダウンでのテーマがうまくいかないのなんてほとんどボスの企画計画が悪いせいでしょ。それを学生におっかぶせて「論文ゼロだから学位出さない」というような制度にするのはまずいんじゃないですかね(たまに具体的な話を丸投げする人いますけどそれもそれでどうよ)。だいたい論文出やすい分野と全然出ない分野あるのに、そういう事情無視してほぼ一律の論文数基準決める事自体まずい話だと思うのですが。
そもそも博士号は大学などの各認定機関が独自の責任で出すもんであって、それぞれがそれぞれで内輪で指導評価して認定の可否を決めればいいわけで、なんで投稿論文なんて外部指標を、それも必須条件にする必要あるんですかね。なんつーか、本来自分ちで全部責任負って出すはずなのに、後で不祥事とかやらかし案件が出たときに「投稿論文があるからしゃーない」、「この論文出てるからええやんって思っただけ」、って責任逃れのために使われてる気がしないでもないんですよね、最近のやつ見てると。「論文が撤回されたからじゃあ学位もなしで」っていう、認定機関なのに主体性がないというか。
もちろん外部にもわかる、専門外の副査にもわかる評価としての投稿論文が必要ってのはわかるんですけど、別になくてもいいじゃん、そんなもん外部用のモノなんだから。学位認定機関が責任もって学位出せばいいだけの話であって。なおアメリカ留学先の学生は結局ゼロ報でPhDとりましたが、現在はPIとしてやってますよ。もちろん日本だって0報でも出せるんですけど、「0報で博士号出すとはけしからん」だとかそういう人が結構な数いるんですよね。
ところでこういう「年限内での論文発表」を博士号取得に要求している人、まさか同じ口で「論文は数じゃなくて質」とか言ってないでしょうね。年限で縛ったら高いとこ出せないじゃないですか、acceptまでの時間考えたら。たとえばNature投稿するようなすごい成果あるけどrevisionやらなんやらで1年以上止められて論文ゼロ報で時間切れでポイ、もしくは意味もなくoverDになるのを強制するんですかね。それとも時間に間に合うようにNature級のやつでも査読がザルな論文誌に投稿しろってんでしょうかね。学内の主査副査の指導とか評価なんて学内で期限きめりゃすぐですけど、投稿論文が載るかどうかなんて完全に向こうの都合であって、reject and reject繰り替えされたらどんどん意味もなくタイムリミット近くなるわけで、そんなことで博士授与が延期になるとかいうことは許されるのかって話ですよ。この手の人、ジャーナルのレベルでもこいつの学位は大したことない的な文句言ってくるし、同じ口で日本のジャーナル(低IF値)を大事にしろっていうからどうすりゃええんじゃ。論文どこに投稿するかなんてボスの好みで決まるやんそんなん、どんなにすごくてもここにしか出さないって人いるし。
ほんとにわからないのが、こういう論文出さないと博士号出さないシステムなのに、論文ないけど公聴会先にやっちゃうってパターン。で、結局論文が期限までにaccept間に合わなかったからって授与延期になるっていう。公聴会やるんならもう論文どうでもいいから出していいじゃん!
ところで、論文の分野じゃなくて学会発表やその紀要が重視される分野ってどうなんだろ。学会発表ってシーズンに依存するから、それこそ出す機会限られて論文以上に切羽詰まりそうだけど。
逆に、もう退官した人ではありますが、ScienceとNature持ってるのに出してもらえず、over D限度ギリギリまでやらされてやっと学位もらえたという御大もいたりします(勘違いしないでほしいのですが出してもらえなかったのは御大御本人です。その学生じゃないです)。研究取りまとめて出すという意味では正しいんでしょうけど、下手に論文数とか規定したら、きょうびこういうのもハラスメントとか言われるんでしょうなあ。なので、百歩譲って出すのを必須にするにしても論文数規定明文化しないほうがええんちゃうの?とは思います。特に日本は「学生が金を払って博士課程に通う」というシステムなので、博士号基準(論文数的に)早々に達成してなお残ってやれって言われたら大半の人やりたくないですよ、いや本人以上に親がキレるか。
まあここまで勢いで書き散らしましたけど、この投稿論文を学位取得の必須要件にするのは全然日本に限った話じゃなくて、よその国だと合計Impact Factor値が一定以上にならないと学位出さないとかいう究極にアホな例も聞きましたが。個人的に日本でこういうのがなくならないのは論文博士の影響もあるんかなあと思ったり。自分ちの成果で学位出さないわけだから学術論文のproofないと判定できないとかいうのもありそう。ところでこの論文博士って日本以外の国であるんですかね?ないならこれ博士号に認定していい話なの?世界的に大丈夫なの?ディプロマミル的な目で見られたりせんの?ってのは昔から思っててどうなの。
もちろん今でも0報で博士号出せるところもありますし、特に投稿論文受理に時間がかかる分野はそういう風になっているはずですが、分野問わず、論文ベースじゃなくてもっと人間の中身を主とした学位の出し方していいんじゃないんかなと思ったり。もちろん研究成果まとめて投稿するってのを目標にはすべきでしょうけど、mandatoryとして規定するのはよろしくないよねって。でも論文基準なくしたらなくしたで、今の日本からしたら修士号同様年限通り過ごしたら中身如何にかかわらずそのまま出しちゃう(〇〇省からの(゚Д゚)<オーバードクターけしからん!金減らすで。というアレもあり)とかいう風に一層なっちゃいそうで怖いなあというジレンマでありんす。
自分のポスドク先では論文0報でもOKでしたね。その代わりdefenseが相当厳しいようです。
日本だと新卒採用に合わせるために卒業させなきゃいけないという暗黙の了解があるからなんだかなぁ・・・と今年の修論をみて思ったり。
論博は日本以外だと聞かないです。大学側の金銭面のメリットからなかなかなくならないですけど、現場では「会社で没になった昔のネタを使って同じ博士号かよ」って不満しか出ないです。