ただし「なかったこと」と言っても全く歴史上から消されるわけではなく論文そのものは存在し、それが『撤回』されたという形で存在し続けます。ある種晒し上げですな。なので、論文そのものはなかったことになりますが発表されたこと自体は存在し続けるので、こうした論文が撤回後も引用されることはよくあることです(m9(^Д^)プギャーっていう引用もあるけど)。もちろんそれを根拠にして再現性を確認して復活することもたまにあるわけですが、そもそもその事実自体が撤回されているので、それの真偽や再確認についての話はあっても、「撤回された論文の内容を前提とした研究」というのはなかなかありません。てかそんなのありなの?
そんな話が最近現れたので紹介することにします。
2016年、台湾のWuらは、インドネシア産キリンケツヤシ(Daemonorops draco Blume)から得た”竜血”から抗炎症活性を示す有機化合物を単離し、構造を決定しました。なんだかカッコイイこの”竜血”というのは、もちろん
・竜の血の赤、虫の赤
そして今回Wuらが見出したのは、フラビン3量体が複雑に縮環した化合物で、その名を「竜血」にちなんで命名しました。その名も
「ドラゴンブラッディン」
(dragonbloodins A1 and A2)!!
一体どこまでこじらせたらこんな名前つけるようになるんですかね、ってくらい中二病感満載な名前(いいぞもっとやれ)。やべえよ絶対「魔剣ドラゴンブラッディン」とか出てくるよこれ。
↓ちなみにそんな感じの天然物をまとめた過去のエントリー
・化合物の名前-ゲームやアニメに出てきそう編-
ところがどっこい、この論文はOrganic Lettersにてオンラインで公開された直後、何と論文が撤回されてしまいました。その理由は「ドラゴンブラッディンA2のX線結晶データの誤解釈(misinterpretation)により、誤った構造と生合成仮説を出してしまった」というもの。具体的にどこまでmisinterpretationだったのかはわかりませんがこれ撤回するようなほどのもんなのかねCorrectionじゃだめなん?って気もします。そしてこの撤回通知には「我々はこの論文を撤回し、この化合物の構造に関するさらなる調査を行い、追って報告する」と書かれてはいるものの、いまだにその追加報告はありません。
いずれにせよこれはページ数や巻号数がつく前に取り下げられ、巻号数ページ付で論文として存在するのは「撤回通知」だけとなってしまいました。通常、論文は撤回されてもそのまま残り続ける(ただしページにはでかでかとretractの判を押される)のですが、さすがにオンライン版で取り下げ処分が下ったやつは正式なページがつくことはないようです。ただし、撤回された論文自体はこの撤回通知のSupporting Infoとして晒し上げ。その発想はなかった。
それにしても、NaH酸化騒動(「水素化ナトリウムの酸化反応をブロガー・読者がこぞって追試!?」from Chem-Station)のときもそうですけど、ACSってオンラインに載ってからの撤回までのアクション結構早い気がするし、そういった場合の対応もちゃんとしてるなあ(NaH酸化の論文本体も同様にWithdrawn通知のSupporting Infoという形で現存)。
Retraction of “Dragonbloodin A1 and A2: Flavan Trimers and Antiinflammatory Principles from Sanguis Draconis”
Tian-Shung Wu et al. Org. Lett. 2016, 18, 3042.
↑これ自体はRetract情報と理由だけだが、Supporting InfoがRetract前の論文本体になってる。
というわけで残念ながらこのかっこいい化合物ドラゴンブラッディンは、論文報告としてはなかったことになってしまいましたとさ。
お し ま い
と思っていたら、なんとこの「論文としてなかったことになった天然物」を全合成して構造を確認した、という報告が現れました。
Biomimetic Synthesis of Complex Flavonoids Isolated From Daemonorops “Dragon’s Blood”
M. Schmid, D. Trauner
Angew. Chem. Int. Ed. DOI: 10.1002/anie.201705390
Traunerらは生合成仮説に基づき、フラボノイドユニットの3量化反応によってこれらを合成することとしました。興味深いことにユニットの3量化反応は、なぜか生成物のマイナー成分を過剰量用いることで良好な収率で進行するようです。そして空気酸化により残る部分の環化が進行、過酸部位を還元することでドラゴンブラッディンのA1, A2の全合成を達成しました。
ラセミ合成なのでわかりにくいですが、A1とA2はフェニル基の立体化学が異なるエピ体です。ただし、もともとの論文報告ではA1とA2は光学活性化合物であり、A1とA2のCDスペクトルのコットン効果の正負が逆を示していることが記載されています。撤回されたもともとのOL論文ではエピ体として両者は記載されていますが、TraunerらはこのCDスペクトルから天然のA2の構造はA1の擬鏡像体(pseudo-enantiomer、つまり図のA1の鏡像体のPh基部エピ体)であろう、としています。なお、ラセミ体のスペクトルデータは撤回されたWuの論文と(論文撤回要因となったA2も含めて)一致したそうです。
というわけで、土台となる論文が撤回されてそもそも根拠自体がなくなったにもかかわらず、それを(再現や追試ではなく)ベースにした研究論文が現れるという状況的に「????」ってなる話でした。論文は撤回されてもなお『撤回』の印を押されたまま世に残り続けるということから、データ照合含めて可能になったってことなんでしょうけども、そもそも「天然からとってきた」ということ自体が撤回されてるので、これ天然物合成っていえるんですかね?なんかややこしいな。どうせなら撤回要因になったA2の結晶構造解析もやってそこまで比較とかすればよかったのにと思うのは欲張りですかねえ。にしても構造合ってたんだとしたら一体なんでOLは撤回になったんだろ。CDスペクトルの話からして結晶データの対称操作間違ったとかそういうことなのかな。
で結局「ドラゴンブラッディン」は現在のところ、
「天然から取れたという根拠はなくなったけれども化学的に合成されて構造が確かめられた」
というよくわからない感じの化合物となりました。でも
『歴史から消されたものが新たに人の手によって蘇った』
とか言い換えるとなんか中二病感してますますカッコイイな?(そうかな