その表記方法として現在一般に用いられているのがくさび型で、黒塗りの
と言っても実際に一義的にくさびで表せ、と決まっているわけではありません。実際にはいくつかの流派にもにたタイプがあり、ある種派閥みたいなものにもなっています。
まず一番多いのは、最初に示した両くさび型。立体化学を表す必要のある炭素から細い方→太い方へと伸びる書き方になっています。上に出る結合も下に出る結合も形は同じで、違うのは塗りつぶしか点線か、です。教科書での採用率も一番多い気がします。
しかしこの両くさび型、致命的に気に入らない点がひとつ。上に伸びる黒塗りくさびは遠近法的に合っていますが、下に伸びるくさびは、支点から遠ざかっているにもかかわらずなぜかどんどん太くなるという書き方になってしまいます。遠近法ガン無視です。
という考えから登場しているのが逆くさび型。上に出る黒塗りくさびはそのままですが、下のくさびは先ほどと逆。立体表記炭素側を太い方から始めて細い方に伸びていくようにしています。これなら遠近法に乗っ取ってどんどん小さくなっているのでスッキリ☆
かなり少ないですが、論文でも見られます。
論文例
・K.-H. Altmann, Chem. Eur. J. 2015, 21, 8403
・中田雅也, 犀川陽子, J. Org. Chem. 2014, 79, 9922
なお僕は学部生のころ、有機化学の授業がこの逆くさび派の先生で、『遠近法的にこれが正しいんや!』と言われてなるほど!!!!と強く感銘し、以降逆くさび派として生きてきたものの、4年での研究室配属後に逆くさびでやったら『そんなのルールに反する!!』と集中砲火を浴び、敢え無く改宗を余儀なくされてしまったという悲しい歴史(?)があります。我々は決して多数派の圧力に屈しない!(ぉ
このような悲しい犠牲者を出さないようにするためか(?)、
『つーか、くさびなんかにするから遠近だのなんだのうるさいことになるんじゃね?』
ってな感じで出てきたのが(ほんとかよ)棒併用型。論文例は少ない気がしましたが、ウォーレン有機化学、ヘゲダス遷移金属はこのタイプです。これで遠近法でやいのやいのとなることもなく、世界に平和が訪れました。めでたしめでたし。
論文例
・玉村啓和, 鳴海哲夫, Org. Lett. 2015, 17, 2302
と思いきや
『だったら上にでる結合も棒にしないとバランス悪いだろ!!!!(真顔』
という風になるのはまあ当然。というわけでもう全部棒にして、黒塗りと点線で区別型もあります。大学院講義有機化学がこのタイプ。また論文でも福山研、MacMillan研, Overman研などがこれを踏襲しています(MacMillanはOverman研出身なのでその流れを汲んでいるということでしょうかね)。
論文例
・福山透, 横島聡, 西山義剛 J. Am. Chem. Soc. 2014, 136, 6598
・L. E. Overman, 佐藤隆章, Org. Lett. 2007, 9, 5267
・D. W. C. MacMillan, J. Am. Chem. Soc. 2012, 134, 11400
これらに加え、ダウンの結合を、くさびでもなく太棒でもなく、単純に点線にして表記するスタイルもあります。昔の論文、特にRSC系論文誌ではありましたが最近ではめっきり見なくなりました。この点線型でも上の結合をくさびにする派と太棒にする派があってまあめんどくさい。なお、くさび―点線型はSciFinderや日本薬局方、マクマリー有機化学が採用しています。個人的にはこれ細すぎて配位とかそういうのと区別つかないから好きじゃないんですけどねえ・・・。
と、このように色々な流派があるのですが、どうも年を追うごとに両くさび派が増えていった、という調査結果があるそうです。
立体化学表記法の混乱について
桐原 正之, 望月 友裕
静岡理工科大学紀要, 2009, 17, 37
これによると「ChemDrawの登場によって」両くさびタイプがどんどん増えていった、とあります。面白い考察とは思いますがなんかあまり根拠が示されてないのが残念。個人的にはほんまかいなと言った感じ。
ChemDrawはデフォルトでくさびを出すと『小さい方から大きい方』へのびる風に出るようになっています。一方、棒型はもちろん太さが均一なので変わりなし。
そのため、Downの逆くさび型をChemDrawで出そうとすると、一度『小さい方から大きい方』つまり両くさび型での向きで出した後、もう一度その結合をクリックして逆方向に変えないといけません。一個の不斉炭素を書くのにクリック回数が無駄に増えるので、逆くさび派を貫こうとすると手間になってしまいます。一方普通のくさび派や棒派は影響なし。なので逆くさびが減るのはわかりますが、棒使用派が減る理由にはなってない気がするのでもっと別の要因があるんじゃないのかな、というのが個人的な感想です。
というよりこれは逆くさび派を追いやるための陰謀の予感!(モルダーあなた疲れているのよ
というわけで立体化学を表す結合の表記をおさらいしてみましたが、まあこれ何が正しいとかじゃなくて完全に感性というか心情というか思想によるものなので好きなのを使ったらいいんじゃないですかね(適当
別の言い方でいえば、純粋に思想や考えに基づいているので、下手に他人の研究室の流派の書き方を「なんだあれwwwwwおかしくね?wwww」「その描き方気に入らない」みたいに言おうものなら無駄な抗争を生むだけなので選択と集中じゃなくて多様性を認め合って平和に生きていきましょう(なんだこのまとめ方は
なお、さっき上の方で『両くさび型は遠近法的に気に入らない』『点線での描き方は配位と間違うから好きじゃない』とか言ってたのを棚に上げてるのは内緒。
ChemDrawによる構造式の描画にはぜひhotkeyをご活用下さい。
通常のplainでとりあえず全ての構造式を描いた後、hotkeyでhash, wideなどに簡単に変更可能です。該当の結合にマウスオーバーした後、"h"を二回タイプすれば、お望みのDownの逆くさび型になります。二回タイプなので少々面倒ではありますが、大幅に手間が省けると思います。
もしかしたたカスタマイズで逆くさび型をhotkeyで割り当てできるかもしれませんが、小生の力不足でやり方は探し出せませんでした。
HPをぜひご参照下さいませ。
こちらこそいつもいい記事を挙げていただきありがとうございます。いつも楽しみにしております。
結合上でのホットキーもあるんですね。
原子上でn-Buとかのホットキーは使っているんですが
結合上でもキーがあるとは知りませんでした。
不飽和結合とかの描画にも便利そうですね、
ありがとうございました。
後で構造式ソフトでいろいろ描画してみて、どういったIUPAC名が表示されるか試してみます。
太線・太破線をラセミ体(つまり相対立体化学の表現)に使うという考え方もありますよね.
でもローカルルールみたいな感じなので論文でたとえばラセミ合成後にキラルで、となった時にくさびと太線を混在させると、reviewerになんか言われそうな気も・・・
返事が遅くなってすみません。
私は有機化学についてはあまり詳しくないのですが、例えば下記の画像のような構造の場合、紛らわしくなってしまうのではないか、と考えたのです。
(ちなみにこれはメチルフェニデートという化合物です)
http://fast-uploader.com/file/7021182422834/(1か月後にファイルが消えます)
両方ともMarvinSketchで描画してIUPAC名を確かめたところ、左はR体と表示されたのですが、右はRS表記のないラセミ体の名前が出力されてしまったので、もしかして私の書き方が変なのかもしれません。
ただ、ジョーンズ式などの多数派で習っている人と、モリソン・ボイド式で習っている人では、この図を見た際に、それぞれ感覚的に逆方向の立体構造を頭の中で思い描いてしまうような気がするのです。
確かにこうやって立体化学の表記が混在していると場合によっては混乱することもあるでしょうね。
以前は良い例が思いつかず、メチルフェニデートの例で説明してしまいましたが、もうちょっと分かりやすい例がありました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%92%E3%83%8D
このモルヒネの図などは、逆くさび方式、太線方式を採用されていると、どちらが起点なのか本当にわからなくなってしまいます。
(ただ、この例では末端の水酸基の立体表示を見ることでかろうじてどの方式での作図なのか判断はできますが)
学会などで統一指針が出ればはっきりするのでありがたいんですけどね。
あーこのモルヒネの描き方はよくないですねえ・・・なんでこんなのになってるんだろ。 普通はベンゼン環の隣の第4級炭素は、手前に出てるアルキル鎖だけにくさび(上向き)を出し、芳香環の部分には下向きくさびではなく実線で描きます。また、その上向きくさびからアミンまでの炭素鎖は太くしないのが正しい描き方となります(立体化学に関係する話は一切この炭素鎖にはなく、単なる奥行きの表現として書かれているため;アミノ基も立体化学があるわけではないし)。
こうすれば混乱もだいぶへるので単なる描き方の問題かと思います。 個人的には右下の下向きくさびの炭素ー炭素結合は、第3級炭素の水素原子を表示して上向きのくさびとしてあらわすのがよいのでそこも気に入らないのですが。
IUPAC Recommendationsということで,両くさびを推奨します,という流れにはあるようですね。
J. Brecher, Pure Appl. Chem. 2006, 78, 1897
強制力のあるものではありませんが,自分はこれに倣って書いてます。
たしかにIUPAC的にはくさびですね。なので大半の人は両楔なんですが、意外とその人の流派というものが描き方から見えてきたりします。
とはいうものの、ここ最近はそういったバリエーションもなかなか見なくなってるので査読段階で手入れが入ったりしてるんですかねえ・・・