前回はこれまで炭素ではありえなかった3級炭素に対するSN2反応を取り上げました。しかし、有機合成で頻繁に使われるシリル系保護基は、導入する試薬が3級ケイ素なのにどう見てもSN2反応で置換反応が進行しているように見えます。炭素と同族であるケイ素のこの反応は本当にSN2なのでしょうか。
周期表を見て、そして周期表の並びの意味を理解していればわかると思いますが、ケイ素は炭素と同族とは言っても高周期に属しており、物性は似通っていても色々異なる部分があります。特にケイ素は炭素よりもかなり大きい原子(原子半径はケイ素が110pmに対し炭素が70pmとほぼ1.5倍)であり、また炭素―ケイ素結合と炭素―炭素結合の距離を比較しても、C-Si結合長がC-Cのそれの2割増になっています。
これらの影響から、ケイ素は炭素と違って3級原子であってもSN2として求核剤を受け入れるスペースが十分に作られているため、SN2反応が進行するのです。もっともケイ素は5配位を取れるので炭素原子のような「押されて出て行く」ような求核置換反応とは違うので厳密にはSN2ではちがうのですが、「出て行ってからくっつく」と言ったものでなく「くっついてから出る」という意味では炭素と大きく違う点。
ではケイ素中心でのSN1反応、つまりシリルカチオン経由での反応というものはないのでしょうか。このような研究は実際盛んに行われていて、計算化学によればなんと3級シリルカチオンは3級カルボカチオンより安定であるという結果がはじき出されています。これは①ケイ素原子が炭素に比べて大きいこと、②ケイ素の双極子分極率(dipole polarizability)が炭素のそれよりも大きいこと(ケイ素36.4a.u.に対し、炭素11.8a.u.)、③ケイ素の電気陰性度(electronegativity)が炭素よりも小さいこと(Paulingの値でケイ素1.8で炭素が2.5)などの影響があります。
おいじゃあシリルカチオン出やすいんじゃん!じゃあSN1も当然あるわな、と思ったあなたはまだ早い。この計算結果はあくまでgas phaseでの話であって、溶液状態など周りに他の分子がある状態を想定したものではありません。ではそういう場合にはどうなるか。
先ほどデータを出しましたが、ケイ素は①原子半径が大きい、②結合距離が炭素のそれよりも長いという2点がありました。これがSN2反応では鍵となる特徴だったのに対し、シリルカチオン安定化においては致命的な特徴となります。3級カルボカチオンが裸の状態で存在出来るのは中心カルボカチオンが結合している周りの原子によるσ供与、及び超共役による影響のおかげです。ところがケイ素の場合にはその結合距離が長いためその恩恵、特に超共役の影響が激減してしまいます。
従ってほぼ自分自身、つまりケイ素の特性によってのみ電荷を薄めることが出来ることになります。
じゃあカチオン無くなっちゃうけどSi=Cで安定か出来るでしょ?とお思いでしょうが、これも結合長が長いことが災いし、Si=C結合は、特にπ結合のエネルギーがC=Cのそれと比較して格段に低く、周りの分子からの攻撃を容易に受けて開裂してしまうため通常は安定に存在出来ません(巨大な官能基を使って影響を受けないようにすることで単離することは可能)。
この結果どうなるか。シリルカチオンは電荷を周りに分散させることが出来ず、シリルカチオンそのものとして存在することを強制されている状態になるのです。その結果、生じたシリルカチオン種は極めて求電子性が強くなり、抜け出たはずの脱離基(X-)を再度ひきつけてくっついてしまったり、ベンゼンとイプソ位でくっついたり、果ては希ガス原子までも取り込んでしまいます。
こういった特性のため、安定にcondensed phaseで存在出来るシリルカチオン種の開発が行われてきましたが、このカチオン種の構造が実際にX-ray結晶解析によって確認されたのは実は最近、1993年の話だったりします。そのための工夫としては①シリコン周りの置換基を巨大にする、②シリルカチオンと反応しないような頑丈なカウンターアニオンを持ってくると行ったことが重要な要素になります。
↑に示したのは1993年の例とは別の分子ですがシリルカチオン種側。アニオンには嵩高い置換基の付いたボレート(R4B-)やカルボラン酸が使われています。
で、結局シリコンのSN1反応があるかどうかですが、一応カチオンが出なくはないので起こると言えば起こります。分子内での反応報告などもあるのですが、まあこんな感じに不安定なので一般的に普通に使ってる分にはケイ素中心によるSN1反応は起こらないと言ってもいいと思います。
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余談ですが、SF小説によくある話として、地球外には炭素と良く似た性質を有するケイ素で出来た『ケイ素生命体』がいる、というものがあります。ただ上述の理由にもあるようにケイ素はπ共役系が極めて弱いためsp2構造を取れない(安定な状態で取ることが出来ない)という致命的な欠点があります。つまりアミノ酸などにたんまりと含まれるカルボニルの等価体であるシラケトンや、シラベンゼン構造を取れないということです(嵩高い置換基をつけることで単離可能だが炭素に比べて圧倒的に存在出来る条件が狭い)。そのため、そんなのは存在出来ないと言われています。
但し、それらは我々地球の常識で推し量ったモノに過ぎないので、ひょっとして常識を超える生命体がいる可能性も・・・?
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2012/May/13追記
上記のとおり、ケイ素カチオンは強烈な求電子性を持っています。その性質+ケイ素―フッ素結合の強固さを利用し、不活性なC-F結合からFを強引に剥ぎ取ってカルボカチオンを出させて変換を行うC-F活性化のツールとして近年利用されています。詳しくは以下の総説を参照ください。
瀧川紘 有合化 2012, 70, 77-78.
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本文Refereces
1) "The Free Tricoordinated Silyl Cation Problem" H. Čičak Chemistry in industry 2010, 59, 111-124.
↑Review。チェコの聞いたことないジャーナルなのでアレだけどreviewとしては十分使える。
2) (PDFファイルなので注意)"高周期典型元素の多重結合化合物の化学の新展開" 岡崎廉治 TCIメール 2000年1月 3-17.
3) "Germanyl and Silyl Cations—Free at Last" Paul von Ragué Schleyer Science 1997, 275, 39-40. (perspective)
4) "Crystal Structure of a Silyl Cation with No Coordination to Anion and Distant Coordination to Solvent Lambert, J.B. et al. Science 1993, 260, 1917-1918.
5) "The Homocyclotrisilenylium Ion: A Free Silyl Cation in the Condensed Phase" Sekiguchi, A. et al. JACS 2000, 122, 11250-11251.
6) 大学院講義有機化学I p349.

